昭和五十七年二月十六日 朝の御理解
x 御理解第四十五節 「世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく、出るくぎは打たれる。よく、頭を打つというが、典で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思おうけれど、大声で叱ったり手を振りあげたりすることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ。」
本当な事がわかる、という事。わかっておるけれどもそれが自分の血肉になっていない。それでは同じですからね。わかった事がじぶんの血肉になる時に、それが徳ともなりおかげともなってくるんですね。昨日は富久信会でしたが、この頃非常に若い方達が多くなりましたですねえ。三十、四十才位の、もう生き生きとして、まあ合楽理念を実行しておられる。そしてそこに受けておられる神様の働き、おかげというよりも神様の働きという事ですよね。はっきりと神様の働きをそこに感じておられる。
良い事、悪い事につけて、まあこの方達が合楽理念の本当の実験実証が出来るようになった時に合楽理念が本当の意味で世に問われる時だ、というふうにまあ思わしてもらいました。いくら合楽理念が素晴らしいの、人間が助かる、という事の上に於ての理念に於ては最高だ、というてもです。本当に、その助かりが実際に現れてこない事には、ね、言うばっかりではつまらん。そりゃ成程私がおかげを頂いて皆さんにも見てもらい聞いてもらいしておるのですから、けども私一人では出けん。合楽に信奉される皆さんの一人一人がその実を挙げて下さらなきゃならない。
ためには、ね、本当な事、なら本当な事、というのがわかっただけではなくて、それがすっきりと身につかなければいけない。血肉にならなければいけない、という事ですよね。それにはやはり一遍にそれが自由なった、とか、一遍に血になった肉になった、という事はない。それをまあ繰り返し繰り返し実験させて頂くうちに、それがすっきりと本当な事がはっきりと言え、本当な事がおかげの上にも現れてくる、というような、ね。おかげになってこなければなりません。
最後に文男先生が発表しておりましたが、まあ本当にお話ぶりじゃなくてその心根が、ね、心根を聞いておって、まあそれこそうっとりするような感じでした。いつもまあ申しておりますように、本当な事がわかってそれを実行して、それがまあ遅々としてではあってもです。その、血になっていきよる肉になっていっておる。すっきりしていっておる、という事なんです。ね。ま、たとえていうならば、んなら交通事故で、車に毎日乗りますから、ま、人にこう接触されたり追突されたりする。そういう時にはもう絶対相手から金はもらわん、というのですからね。
そりゃもう私が悪いのですから修繕代だけは私が出します、と言うても、いやお金はもらわん、とこう言うのです。それは先達てからお話を致しますように、それが本当なんだ、とこう言ってます、ね。追突された、だから追突した者が悪いから修繕代を出さなければならん。これが普通一般だけれども。もし自分がそこにいなかったらその人は追突する事はなかったんだ。本当いゃあ私がここにおったからなんだ、という事がわかっただけではなくて、それを実際の上に実験して行こうとする姿勢。
例えば呉服の商売をしておりますから、ね。やっぱ掛けで売らなきゃいけないような場合もありましょう。そういう時にまあお客さんに、もうあんたがコロッと死なれたら私はもうこれは香典にする、と。息子からもらわなん、孫からもらわなん、ちいう事は言わん、ち、ね。もうあなたがひっかけてどっか逃げなさっならば逃げなさった先まではもらいに行かん、と。もうその辺のすっきりしている具合ですよね。
それは合楽理念というか、いうなら長年の合楽の信心を実際間のあたりに聞いたり見たりして来て、そして本当な事を実験していくうちに、そういうすっきりしたものが生まれてきたんですよね。ね。そりゃ例えば相手に商品の、ま、売り掛けという、亡くなっなさったなら、その息子からもらう、下さるなら頂こう、とこういう。もし逃げなさったら逃げた先まで尋ね求めして、それこそ集金に行く、といったような事はせん、とこういう。もうひっかけられたという事はね。もう相手が悪いとじゃない、ひっかけなければならない元はこちらにあるんだ。そういうところがわかっていってるんでしょうねえ。
どうでしょうか皆さん。そこに、ね、それこそ小さいながらもそこに何とはなしにすっきりとしたおかげとすっきりとしたそういうひとつの思い込みというものが、ね。いよいよ本当なものになってもっと偉大に大きくなっていく事が、信心が育っていく事だというふうに思うんです。ね。私、どうしても合楽の信心は、ね。も本当に、いわゆる本当から本当を求めていくわけですから、ね。その求めてそれがわかっていく、というのではなくて、ね。それが血に肉になっていかなければ、そこに一つの観念といったようなものが、ね。すっきりとした観念になっていく、その思い込みの強さに、私は文男先生の場合はいつも、ま、そういう意味で素晴らしいなあ、とこう思うんです。
例えば、ん、なら御用でこちらへ出てまいります。どんなにそれこそ十二時になっとってもやっぱりここへ来たが最後やっぱ私の部屋にやって見えます。そしてそれこそまたじっくりと両方の足を揉んで帰られます。私は眠ってしまっとる、けれどもやっぱりこれだけは、もう今日は遅かけん、とか親先生がかえって迷惑しなさるかも知れんちいうような事は考えんごたるふうですね。これはもう絶対の思い込みがそうさせるわけでしょう。
昨日私、最後に秋永先生がまあそれこそ胸のすくようなお話をしてました。聞きながら思ったんですけれども、はあ文男先生の信心はそれこそ泉尾の先生じゃないけれどもこの、その、思い込みの強さに於てですね、一途なんです。しかもそれが本当な事、真実一途なんです。違った事を思い込んでそこから一歩も出らん、という。これではおかげがともないませっんもんね。けれども本当な事が本当に思い込めて、それがしかも血に肉になって実験して実証して行きつつある、という事がです、一途じゃなからなきゃ出来ないです。その一途さ、というものが、ね。本当な事に対する一途さ。
だから最近頂く御理解の中にその、一途と、私の場合は真実一路だ、というふうに聞いてもらいましたが、秋永先生のお話を頂いておりますと、はあこの人は本当に真実一路な人だなあ、と思いました。ね。これは自分がじゃなくても自分の心の中に、これが本当だ、と思ったらもうそれこそ一遍にすきっとこう切り替えていかれる具合い。
これは私、長年先生の信心を見ておってです、たまにはそれが違っておるような場合もあります。けれどもその、切り替え、というですかね。それは本当の事思うて本当の事切り替えれたのだけどもでは、そこが人間生身ですから、ね。違った場合もありますけれども違った事に切り替えていく、といったような場合もありますけれども、ね。それが間違いであった、と気付いたらもう次の本当の事すきっとこう入っていかれておるその模様を昨日話をしておりました。
rもう三十年も前に、まあだ私が福岡におる時分に私の所へ、福岡教会へお参りをして帰りは私の所へ寄って、ま、帰られましたが、その時分に私の事を大黒様と私の事、神様から表現、の上に言うておられたが秋永先生の事を恵比須さんと言うふうに言っておられました。それでその恵比須さんはいつも鯛を小脇に抱えて竿をかたげておる、というのが恵比須さんの、ま、恵比須さんスタイルですね。けどもやはり私が御心眼に頂くところz、恵比須さんの周囲にもう鯛が一杯泳いでるんですよね。ですからこれを一匹一匹釣り上げるような事ではなくて、ね。びくをもっておる、かごを、てごを、そん、てごのかごの蓋を開けときゃ鯛の方が飛び込んで来る、ようなおかげを頂け、というふうに頂いとったんです。
それから一匹一匹竿をかたげてまあそういう所も色々通って、私は昨日富久信会の事をお願いさしてもらいよりましたら、もうそれこそもう一生懸命に、昨日秋永先生が一番最後ん所に、もう兎に角、いま合楽へ向けて地駄走りだ、といったような意味の言葉を使っておったんですけども、私が御心眼に頂いたのもそう、秋永先生、z恵比須さんがもう合楽の方へ向かって地駄走りして来よる所を頂いたんです。恵比須さんが合楽の方へ向かって地駄走り、そしたら、もう、竿をかたげて、沢山の鯛が、ね、ここの口をこう開けたようにして、もうそれこそ一生懸命走っておる後から、もうそれこそ矢を射るような勢いで鯛が沢山その恵比須さんの後からついて来よる所を頂いたんです。
昨日の話を頂いとってははあこの事だったなあ、と私は思わせて頂いたんですけれども、これはだから、先生自身も言ってましたけれども、それぞれの個性、性格というものを変える、という事よりもその持っておる個性に磨きをかけて、その人じゃなからな出けん、といったような、いうならばおかげを頂けよ、と。
昨日丁度飯塚の安東支部長も見えとりました。そいから行橋の堀内さんも来ておりました。前の日は大分支部の共励会で秋永先生大分支部へ参りまして綾部さんにも言うた事ですけど、というて話ておりましたが、綾部さん安東さん堀内さん、と三人とも、ま、女ですけれども、女ながらもやっぱ一流の信心を頂いてやっぱ支部長としておかげを頂いとる人たちばっかりですけれどもそれぞれの、いうならばまあ、場合には鼻につくようなその欠点も持ってる、とこういう事なんです、ね。
けどもそれを欠点と思わずにそれに磨きをかけて、でなからねば出けん、という信心になっていけ、と。それにはその、じぶんの信心のあり方というものがいよいよ本当から本当を求めていく、という、あの人じゃなからな、もう綾部さんでなからな、安東さんでなからな、ここは堀内先生でなからな出けん、というようなものをまあ身につけていけという話をしております。それこそ胸のすくようなお話でしたが、ね、もう本当な事とわかったら、もうそれこそ躊躇する事なくすきっとこう入っていく。
今、私がわかったところ、今私が考えとる事が商売の上にも、こういうふうにまあ飛躍していっておる、という話をしておりますのを聞いて、はあこの人は真実一路の人だなあ、と思いました。これが真実だという事になったら。だから限りなく自分の信心は進展していく、変っていくのだ、という事なんです。これは私もやっぱりそうです。ね。同じ兄弟でありながら文男先生の話聞いとったら、これが本当だと思い込んだら、それを絶対血に肉にすっきりと自分のものにいよいよして行こうという事だけに執念を燃やすという。これはまた素晴らしい。
私は真実一路というのはそうたいした素晴らしい事のないように思ったけど文男先生が、の話を聞きよって素晴らしいなあ、と思いました。そしてそこに各々の、いうなら個性というものがある。だからそれが文男先生なりに育って行き、友良先生なりに育って行くき、ね。そこになら合楽が限りない様々な色、様々な形の人がいよいよそれに磨きをかけて大きくなっていくから、合楽そのものもまあ大きくなっていくというわけでしょうけれども。私はそういうふうに大きくなっていくまた一途にある、という生き方になれば私は今日、ここにあるところのね。頭を下げる事を忘れる、といったような事はない、と思うです。
中味が、その生き方は違っても本当な事が身についていくのですから、実が実れば実るほど私は頭が下がる、というような信心が育っていく、と思うんです。ま、今日は、いつも三宝様踏むな、というような意味のところをここでは頂きますけども、ね。今日は各々の持っておる信心の、その内容というものが、です。あなたなりで果たして真実一路の生き方の自分か、又は真実一路の自分なのか、どちらでもいい。それをいよいよ本当なものにしていくならば、それが本当なものであればあるほど私はいよいよ、ね。中味が出来ていく事ですから、ね。
最後にあるおかげを落とすような事にはなっていかない。限りなく、いうならばおかげも進展していく事だろう。信心も進展していくだろう、限りなくぃうならば実のある実り、が受けられると思います。昨日は、今日は熊本の松村さんのところでの、あちらに共励会が始まって十五年になるそうです。十五年のまあいうなら記念の宅祭をしたい、出来れば親先生に、という事であったけれども、まあ私は参りませんけれども。その昨日、一昨日夫婦でお参りに見えまして十五年の記念に何か、額にしたい、というのでしょう。こんな紙を持って来て一筆書いてくれ、というて、で、今日行く時に持っていく、というから書かせて頂いたんですけれども、まあ松村さんの松という字もあるけれども合楽の信心は松の信心と言われるから「松実」と書きました。松の実と。
お互いがですね、どういう手立てからでもよいから合楽あって今日のおかげがある、というその思い込みの出けるようなおかげを頂いて行きたいですね。ね。合楽あって今日の繁盛はある。ね。楽になったらもういうならば合楽の事も薄くなっていく。希薄になっていく、といったような、おかげを頂けば頂くほど、合楽あってのおかげ。それこそ繁雄さんが頂いておられるようにね。「松の緑に梅にも春の」である。松の緑、合楽の繁盛と共に久富家の何十年間の信心辛抱し抜かせて頂いて、ね。
もういうならばその梅、信心辛抱と言われる梅にも春が訪れた、というようなおかげ。ためにはね、自分の生き方というものをそれこそ竹に雀踊り忘れず、というようにです。生涯かけてこの御用に打ち込もうとこういう、そういう一途なものがあって合楽と共に繁盛していく、ね。そこには合楽あっての今日の私、私の一家というふうな頂き方が出けていく限り私は、ね、頭が上がる事ないと思うですね。
私が頑張ったからこげん今日のおかげは頂いた。ね。もう春が来てから暖かくなったから、もう鶯も来て止まる事なったから、だけじゃなくて、ね。いうなら松の緑、合楽の繁盛と、ね。久富家の繁盛が一緒に繁盛していくようなおかげをいよいよ頂いていく事の為にです。私は、ね。生涯忘れない御用といったようなものが有難う嬉しう楽しう出来るようなおかげを頂かしてもらう時に、ね。決っしておかげを落とす、という事がない、ね。
私は先生と呼ばれたり、いうなら旦那様とこう言われるようになると、ね、つい頭を下げる事を忘れる、と今日はここに言うておられるが、ね。それは自分が努力したけん、これだけの事が出けた、というところから頭が下げられんようになるのじゃないでしょうか。頭が下げられるという事はね。やっぱり合楽あって今日の私があり私の一家の繁盛がある、というような繁盛のおかげを頂く、と同時にその思いが薄くなったりしてはならない。それがいよいよ募っていくような信心を頂きたいですね。どうぞ